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空の検索で16件の結果が見つかりました。

  • 世界から愛される島の6つの風景たち

    ❶重岩 日本遺産の構成文化財であり、パワースポットとして注目されている巨岩。長い石段を登った先の山頂に大きな岩が重なり合って鎮座する。頂上からは瀬戸内海の多島美を望む絶景が広がる。 住所:香川県小豆郡土庄町小瀬 アクセス:土庄港より30分(車約10分、頂上まで徒歩約20分) ❷肥土山農村歌舞伎 江戸時代から続く肥土山農村歌舞伎。地域住民によって受け継がれる島の伝統芸能であり、中山農村歌舞伎とともに「小豆島農村歌舞伎」として、令和6年3月21日に国重要無形民俗文化財に指定された。 住所:香川県小豆郡土庄町肥土山(離宮八幡神社) アクセス:土庄港より車で約20分 ❸道の駅小豆島オリーブ公園 日本で初めてオリーブの商用栽培に成功した小豆島。小豆島オリーブ公園では、約2000本のオリーブの木々の小路や海を望む風車など地中海を思わせる穏やかな雰囲気を感じることができる。 住所:香川県小豆郡小豆島町西村甲1941番地1 アクセス:池田港より車で約10分 ❹寒霞渓 瀬戸内海国立公園の中心にあり、約1300万年前の火山活動により創られた。日本三大渓谷美を誇る奇岩怪石の渓谷から瀬戸内海を見渡せる絶景は、昔から地域の人の手により守られ、愛されている。 住所:香川県小豆郡小豆島町神懸通乙 168番地(山頂駅) アクセス:池田港より車で約40分(山頂駅) ❺エンジェルロード 干潮時に海の中から現れる砂の道を「大切な人と手をつないで渡ると願いが叶う」というロマンチックなエンジェルロード。瀬戸内海の自然が生み出した穏やかな景色を楽しむことができる。 住所:香川県小豆郡土庄町甲24-92 アクセス:土庄港より車で約5分 ❻醤の郷 約400年の歴史をもつ小豆島の「醤油」。木桶醸造にこだわり、その技術は国登録無形民俗文化財に指定されている。醤油蔵が軒を連ねる「醤の郷」ではほのかに香る醤油のにおいを感じながら散策ができる。 住所:香川県小豆郡小豆島町馬木~苗羽 アクセス:池田港より車で約25分

  • なぜ、小豆島は世界から愛されるのか?

    国連世界観光機関(UN Tourism)は観光で地域づくりに取り組む優良地域エントリー65カ国・270地域の中から、「ベスト・ツーリズム・ビレッジ2025」(BTV)を発表。小豆島町と土庄町がそろって認定されました。 映画ならアカデミー賞、食で言うならミシュランで三ツ星と同じくらいの快挙です。2024年の持続可能な観光地を認証、格付けする「グリーン・デスティネーションズ」のシルバーアワード受賞に続き、小豆島は世界的な評価を受けています。 今回の認定を機になぜ、小豆島はこんなにも世界から愛され評価されるのか、改めて考えてみました。 *********************** 「ベスト・ツーリズム・ビレッジ(BTV)」とは? 国連世界観光機関(UN Tourism)が実施する国際認定制度。過疎化や地域格差、文化の均質化が進むなかで、観光を単なる消費や集客で終わらせず、地域に受け継がれてきた自然、景観、文化、食、暮らしの営みを守りながら、地域の誇りと経済、次世代へ続く持続可能な未来につなげている農村・地域を評価する。これまでの国内のBTV認定は以下12自治体です。 1. 北海道 ニセコ町(2021) 2. 京都府 南丹市美山町(2021) 3. 北海道 美瑛町(2023) 4. 宮城県 奥松島地区(2023) 5. 長野県 白馬村(2023) 6. 岐阜県 白川村(2023) 7. 山形県 西川町(2024) 8. 鹿児島県 天城町(2024) 9. 奈良県 明日香村(2025) 10. 和歌山県 高野山(2025) 11. 香川県 土庄町(2025) 12. 香川県 小豆島町(2025) ******************** 2026年の農村観光の世界基準とは、なんだ!? “観光は、農村地域の文化、自然資源を守り、繁栄・成長・結束させ、社会的包摂を促進させるものであり、観光により誰一人取り残されない未来を築くことができるのだ”との主旨をUNTourism 事務局長ズラブ・ポロリカシュヴィリ氏は、BTVの式典で語りました。どうやら世界で問われているのは、景色の美しさや知名度、集客数ではなく、地域の自然・文化・産業・暮らしと、どう結びつき、それらを壊さず持続させているか――。この点こそが、世界の“ものさし”のようです。  そこで今回のBTV認定獲得に現場で尽力された小豆島町商工観光課の中川有里さんに、農村観光の世界基準を聞いてみました。 「小豆島は多様で豊かな表情があります。海と山が共存する風景。小さな島に凝縮された文化。風土をいかした食。自然とアートが紡ぐ景観。離島で生きる時間の積み重ねが、文化や産業となり、それらの異なるものが重なりあって生まれたものです。その全てが唯一無二の人々の暮らしであり、そのまま島の魅力となっています。そこに暮らす人々の生活が、自然や農業・漁業などと融合することで地域の風景を創り、その風景が観光の価値を生みだしていく。それは、まさに小豆島が歩んできた歴史と重なるものです。    小豆島は離島であり、荒天時は完全に閉ざされることもあります。しかし、私たちにとって海は、常に新しいものを運んでくれる道でもありました。製塩業や醤油醸造業、素麺、採石業、オリーブなど多くの産業や、農村歌舞伎などの文化は、全て海を通して、運ばれてきたものです。離島で生きることは、新しいものを受け入れ、自分たちの手で、幾重もの困難の中、生活を育み守り続けてきた挑戦の歴史です。こうして人々の営みが自然や資源などと結びつき、「育み、守り、新しい風が吹く」循環を生み出し、昔から持続可能な島が 創りあげられてきました。   特別な「観光」ではなく、人々の暮らしから生まれた「観光」は、離島で生きることで育まれた創造的で地に足の着いた小豆島ならではの観光のかたちです。  それは、訪れる人にとってはかけがえのない「体験」であり、住む人にとっては「誇り」。暮らしがそのまま魅力となる島、それが多くの人から愛される小豆島なのだと思います。」 ************************** 小豆島の静かな風景の先にあるもの 2026年4月に欧州旅行委員会(EuropeanTravel Commission)が公表したレポート(※)によれば、いま旅先の文化、環境を意識して、行き先を選ぶ旅行者が主流になってきていることを伝えています。こうした「コンシャス・トラベラー」と呼ばれる旅人たちは、もはやその土地をただ消費することを求めてはいません。このレポート内容は、奇しくも小豆島が格付け認証を獲得した「グリーン・デスティネーションズ」や、国連世界観光機関(UN Tourism)の「ベスト・ツーリズム・ビレッジ」の農村観光の世界基準と連動しています。  彼らが求めているのは、“美しく静かで、その土地の営みに深く結びついた体験と風景に触れる旅”と言えます。その美しさは、一朝一夕に作られたものではなく、自然と文化、産業が、まさに今も、日々の暮らしのなかで時間と織り重なってきて初めてできるものです。   その美しさの先に、旅人たちは「未来へ手渡していくに値する暮らしのかたち」を見つけるはずです。そう考えるなら、世界中から訪れる旅人は、小豆島の人々が時間をかけて現在進行形で積み重ねている景色の先に、自分たちの未来の「理想の暮らし」を感じるからこそ、小豆島を愛してやまないと言えるかもしれません。 ****************************

  • 【水と棚田と肥土山農村歌舞伎】

    肥土山地区で300年以上続く伝統芸能。 中山地区は秋の収穫期に、神様に奉納する歌舞伎なのですが 肥土山地区の歌舞伎は、は春の田植え時期の開催。 肥土山地区は、昔から千枚田がある中山地区に比べると標高が低く、 田畑はいつも水不足。上にため池を作って、低い肥土山地区まで水を潤沢に 流すことができれば・・・。当時、私財まで投じたため池プロジェクトのリーダーは、 村の庄屋「太田伊左衛門」さん。さぞかし意気な人だったでしょう。 村民と必死の思いでため池を作り、用水路を作り、水を離宮八幡様の周りまで引いた…。 そこで、嬉しくなった村民が小屋を建て、歌舞伎を演じ、歌を歌い、踊り始めたらしいのです。 当時、江戸幕府が芸事遊興は身を亡ぼす、として、歌舞伎の上演に対する 取り締まりが厳しかった背景もあり“神様に奉納する”のは、どうやら後付けでは(笑)? それはそれは、みんなでドンチャンお祝いしたかったでしょうから! 今でも、伝法川、殿川、蛙子池といった豊富な水と山の恵みがいっぱいのエリア。 肥土山歌舞伎が、田植え時期に行われるのはそれが理由です。 また、儀式からではなく、嬉しくなってみんなで踊りだしたという なんとも素敵な始まりですから、幸せでアットホームな雰囲気も しっかりと継承されているのかもしれません。 肥土山地区は、太田伊左衛門さんは豊水分霊神社として、離宮八幡神社内に ひっそりと祭られています。 Hito-yama Rural Kabuki Performed every year on May 3rd at Rikyu Hachiman Shrine in Hito-yama, this rural Kabuki has been preserved for over 300 years. Unlike the autumn performance in Nakayama, Hito-yama’s Kabuki takes place in spring, at the start of rice planting. In the past, the village suffered from water shortages, until the local headman Ota Izaemon built Kaerugoike Pond and brought irrigation to the fields. Villagers, overjoyed when the water reached the shrine, began to sing and dance—an origin story still told today. Rooted in the blessings of water, this Kabuki remains a warm, community-centered celebration.

  • ルーツを知ることは、その土地への強い愛着へと繋がる力になります

    川宿田好見 | 学術専門員 鹿児島県生まれ。鹿児島国際大学 大学院博士後期課程単位取得満 期退学。修士(国際文化学)。専門 は考古学・博物館学。大学院在学 中に発掘調査や語学留学を経験 するとともに、離島での博物館活 動の在り方などを模索。2010年~ 2013年鹿児島国際大学就業力育 成プロジェクト調査研究員。2014 年~2016年同志社大学文化情報学 部嘱託講師。2013年7月より地域お こし協力隊兼学術専門員として小 豆島町に着任。日本遺産「せとうち 石の島」など、小豆島の石の文化 の魅力発信事業に従事。2022年3 月放送の「ブラタモリ」にて案内人 を務めた。 「小豆島の石や歴史の面白さをみんなで共 有できていたらいいなと思います。住民 の方の石の知識がもっと深まり、住民カイドが増 え、石の面白さを伝えられている状況が理想で すね。“地元の人が自分たちの文化財について 理解し、文化財という資源を大事にすることが未 来のために重要だ”というのが持論なんです」  そう語るのは、考古学者で小豆島町商工観 光課の学術専門員の川宿田好見さん。2013 年に石の学術専門員として小豆島町へ。現在 も石の魅力発信や、地域から石の魅力を伝え られる人を増やすべく、ガイドの育成などに努 めている。  小豆島の歴史を物語る上で、かかせないの が石。小豆島には良質な花崗岩が豊富にある。 大坂城築城時、石垣積みを徳川家から命じ られた大名たちが石を切り出し運んだ丁場跡 が点在する城ファン垂涎の地。巨大な石丁場 跡「天狗岩丁場」には使われずに残った「残 石」がいくつも残り、当時の石切り技術を伝え る貴重な文化財となっている。 「文化財は地域の人たちの誇りや地元へ戻っ てくる動機になり得る」と考えるようになった のは様々な離島でのフィールドワークが端緒。 文化財を通じて自分たちのルーツが話題にな り、住民同士の会話が生まれた。 「限界集落で拠り所になっていたのが、その 土地の“歴史”だったんです。土地のルーツを 感じ理解することは、その土地への愛着を沸 かせる力があるんです。自分が暮らす土地の 歴史は住民であれば誰もが共有できる話題な んですよ。地域を盛り上げようとした時に共感 を得やすいんです」  現在、瀬戸内の島の石文化のストーリーが 日本遺産に認定されたことを受け、石の魅力 を伝える業務に従事。石の文化の出前授業や ワークショップなどを通じて、子どもたちに“種 まき”にも常に取り組んできた。「一番楽しみ にしているのは石工のワークショップですね。 みんなで、石積みをしていくことで石工の技術 を考える。元々やりたかったテーマなので力を 入れていきたいです」。 (「小豆島倶楽部」より)

  • 子や孫の世代に小豆島の木桶仕込みの醤油を残すというのがミッション。それに繋がらないことは一切しない覚悟です。

    山本康夫さん | 醤油職人 Yasuo Yamamoto | soy sauce craftsman 1972年 香川県小豆島生まれ。約150年続くヤマロク醤油五代目。大学卒業後、佃煮メーカーの営業職を経て2002年小豆島に戻り、家業のヤマロク醤油を継承。小豆島の木桶による発酵文化としての醤油を次の世代につなぐため、2012年秋より『木桶」の製造を始める。木桶に使われる巨大なタガを使った「タガフープ世界選手権」などメディアでも話題に。 「ヤマロク醤油」は、伝統的な醤油蔵 の中で、国内外問わず最も有名な蔵 元。小豆島内からも醤油業界からも一目置か れ、「ヤマロクさんについていく」という人は数 知れず。それは、ヤマロク醤油5代目の山本康 夫さんが広い見識と分析を極めた戦略、そして 勇往邁進なる実行力による成果だ。  例えば、醤油を仕込む伝統的な容器「木 桶」を造る技術が途絶えようとする現実を受 け、山本さんは「孫やひ孫の代に木桶仕込み の本物の醤油を残す」と決意。「木桶職人復 活プロジェクト」を立ち上げて最期の大桶の 桶屋から技術を学び、身につけた技術をシェ アして新たな木桶職人を次々と育成。さらに 「木桶仕込み醤油輸出促進コンソーシアム」 を立ち上げ、木桶仕込みを行う全国各地の蔵 元と輸出を図り、木桶仕込み醤油の需要と価 値を一層高めている。結果、醤油前生産量の 1%にまで減少し、絶滅しかけていた木桶仕 込み醤油の需要は国内外で増加。数十年途 絶えていた木桶用の植林の再開が決めるなど、 革命を起こした。  山本さんは、小豆島の未来を「壊滅の一途 で、すぐに変化しないと手遅れ。変化しても手 遅れかもしれないが、望みはゼロではない」と 指摘する。小豆島は食品産業と観光業が主 要産業だが、いずれも不振。食品産業と観光 業の連携や自動化などが必要だったができて おらず、給料水準が低く、人手不足が深刻に。 島外の人や異業種との連携、仕事のレベルの 向上、集約化して給料を上げる必要性も訴え てきた。   そんな中、山本さんは10年以上前から次の ビジョンを描いて一歩一歩実現させている。 「長年僕が掲げるミッション“子や孫の世代 に木桶仕込みの本物の醤油を残す”こと。そ れに繋がらないことは一切しない。そして、看 板商品の醤油『鶴醤』を最高級ワイン『ロ マネコンティ』同様にすると同時に、小豆島 を2大ワインの産地『ボルドー』や『ブルゴー ニュ』同様の地位に押し上げる。すると、木桶 仕込み醤油を使ったつゆで食べるそうめんや、 醤油で炊く佃煮の価値も上がり、物流が向上 し、給料も上がり、仕事レベルが上がり、観光 客の受け入れ体制も好転し、良い観光客が生 産者のところに来てリピーターになり、持続可 能な経営が実現し、次の世代に継承される」  小豆島全体にも革命をもたらすべく力強く 行動を重ねる山本さんは、最後に念を押す。 「ただ僕だけじゃ小豆島の未来は壊滅。他の 人も今すぐ変化すれば、望みはゼロではない」。 (「小豆島倶楽部」より)  小豆島の木桶仕込み醤油 小豆島で「醤油屋」が商売を始めたのが約400年前。醤油を天然醸造させるために使っていたのは木桶。木桶には長い年月をかけて育った“菌”たちが代々棲み、醤油蔵は、先人からその菌を預かりつないできました。その証拠が、この黒々とした壁や木桶。現在、醤油製造用木桶の総数は2020年での調査で約4700本。小豆島にはその1/3以上があるといわれ、今も現役です(「醤油醸造用木桶の使用実態に関する全国調査」より)。 現在、木桶生産の需要は少なく、今後、日本から醤油醸造の木桶はなくなってしまう可能性も。木桶醤油市場は醤油流通全体でみれば約1.5%と脆弱です。今や世界中から愛され世界無形文化遺産に登録された「和食」の味と技術を支える伝統的な木桶仕込みの醤油がなくなれば、和食の味にも影響は確実。そこで、小豆島のヤマロク醤油が木桶醤油の市場拡大と、子や孫の世代に木桶仕込みの本物の醤油を残そうと、木桶製造技術の継承と人材育成を目的に木桶仕込みを続ける全国の醤油蔵、流通、製桶所、料理人、林業会社に声をかけ連携し、「木桶職人復活プロジェクト」が発足。2013年から毎年、小豆島で新桶を作り続けています。とにもかくにも、まろやかで深みのある小豆島の醤油をぜひ一度試してみてください。

  • 小豆島には、どこにも負けない素晴らしいものがある

    有本裕幸さん | 二十四の瞳映画村 専務理事 映画『二十四の瞳』に出演した女優・高峰秀子の生誕100年目を迎える今年、映画や原作の余韻が残ってる世代からZ世代やインバウンドに客層は移行し、いまや予約から情報発信まで、スマートフォンが旅 の中心に。「二十四の瞳映画村」と「岬の分教場」の運営を通じて小豆島の魅力造成の トップランナーとして走り続けている有本さんに、まずは小豆島の現状を聞いた。 「多様な価値観に対して響くものが求めら れる時代になってきた。オリーブも10 0 年 以上たち、昭和2 9年に「七人の侍」を抑え てキネマ旬報ベスト・テン邦画第1位だった 『二十四の瞳』も公開から70年以上が経ち ます。もう昔の名前では来てくれない。全く 作品を知らない人たちを相手にしているわ けです」。  以前ホテルの再生事業に携わっていた有 本さんが心を動かされ施設の運営に関わる ようになったのは、72年前に美しい自然を 背景に壺井栄が描いた「二十四の瞳」に込 めたメッセージを含めての、「二十四の瞳」 が持つ潜在力だ。 「「二十四の瞳映画村」は作品を知っても らうための場所。SDGsで言われる“ 貧 困・不平等をなくし、平和・公正をすべての 人に”などはすでに作品が語っています。作 品は知らなくても、ここの映画村に来てくれ る人を維持できれば、壺井栄が描き高峰 秀子が演じ、木下惠介が撮ったこの作品の メッセージを知ってもらうということは可能 だと考えたんです。でもそれを唱えて施設が 成り立つほど甘くない。作品を新しい世代 へ浮上させようと思ったら、島の皆さんと一 緒になって小豆島が浮上しないと無理だと 理解し、作品のメッセージのように残してい くものと、環境の変化に合わせて変えない といけないものがあることを常に念頭に置い て取り組みを始めました」   全ての作品は風化していくものであること は島も自治体も施設も一緒。漫然と構えて いたら、時代に置いていかれ無くなっていく。 だからこそ二十四の瞳映画村と小豆島は一 心同体だと有本さんは話す。 「新しい取り組みとして瀬戸内国際芸術 祭の作品も展示し、SNSでの発信を意図し て、ノスタルジックな昭和の雰囲気で写真 が撮れるように演出する、映画人のトークイ ベント等、映画村のコンテンツを増やし小 豆島の魅力を造成し発信していく。基盤も 大切です。小豆島観光協会のメンバーとし て、観光ビジョンの策定から観光地域づく り法人(DMO)の立ち上げもやる。同時に、 映画『二十四の瞳』で言うと、今まで木下 惠介監督、高峰秀子さんの映画村の原点と もいうべきフィルムを一切使っていなかった こともあり、松竹に乗り込んで版権の話か ら、365日毎日映画をかける話など交渉に乗 り出しました。島全体の魅力造成や発信は、 島全体の経済に繋がり、ひいては壺井栄や 作品を知ってもらうことにもつながる。いか に小豆島を盛り上げていくかが生命線であ るという視点を持って活動をしています」。  小豆島フィルムコミッションは、その際た る取り組み。最近ではダイハツのCMから 映画「からかい上手の高木さん」など枚挙に いとまがないが、中でも「小豆島」の名が一 気に広まったのは直木賞作家・角田光代の 原作小説を、成島出がメガホンを取り、井上 真央、永作博美の主演で映画化した『八日 目の蝉』が貢献するところは大きい。日本ア カデミー賞で10冠、台湾をはじめアジアでも 公開され、人気はもちろん、評価も高い。 「読売新聞の夕刊に載ってる時に、小豆 島が舞台で、絶対映画になるという噂が あったんです。ロケ地は小豆島にならない可 能性も。でもチャンスがあるんだったらそこ に自分から乗り込んでいかなかったらできな いと思い、小豆島で映画村で撮ってもらお うと映画会社に直談判です。 “このおっさ んはなんだろう”って思ったはずです(笑)。 制作費支援から農村歌舞伎や虫送りの撮 影支援まで自治体や島の皆さんにご協力い ただけるように動きました。オープニングは 東京の劇場で、島のみんなを連れて行って 法被を来て映画と小豆島のプロモーション もしました(笑)」。  有本さんらが尽力した映画化から早12年 の年月が経った今、美しい小豆島のロケー ションが支える作品の聖地巡礼は国内客 のみならず、アジアからのインバウンド消費 を育て、今の需要に確実につながっている といっても過言ではない。だからこそ台湾の 商談会でも、一番行きたい場所に挙がるほ ど人気だ。一番の課題は? 「観光客は約7割が日帰り。車で島をすぐ 回れるっていう感覚かもしれません。しか し1周回るだけで3時間はかかります。自転 車、トレッキング、島遍路などのコンテンツ を楽しむならなおさら。“高松ではなく、島 に宿泊すればよかった…”と、なっても後の 祭りです。SNS受け、インスタ映えするよう な「私だけが知ってる素敵な場所」がたくさ んあるんですが、日帰りの限られた時間の 中だとどうしてもひと昔前の団体旅行と同じ ルートをなぞるだけになる。だからこそ、昔か らの主要な観光施設も一緒になっていかに 一人一人が小豆島の魅力を外に向けて日々 P Rしていくか。宿泊は消費の仕組みです。 外貨を稼ぎ、そのお金が地域の人のために 使われ、同時に次に呼び込むために使われ ていく真っ当なサイクルが求められる時代 だからこそ、単価の高い消費の仕組み創り には宿泊客を増やしていくことが不可欠で す。人口が減っても、島の自分たちが自律的 で幸せな生活を送るためにも」。  小豆島の魅力創りのヒントは、外からの 力をうまく生かし、自分たちの活力や魅力と して取り入れることにあると有本さん。思え ば、古くは江戸時代に徳川家が新しい大坂 城の石垣積みを大名に命じた際に、小豆島 の石は大名から重宝された時期。石工はも ちろん彼らの生活を支える多様な人々が島 に入り、島の文化と融合し醤油やそうめんな ど今でも続く新しい島産品が生まれた。 「僕の地元である筑前小倉の細川藩は、 良質な石を小豆島から大坂へ切り出し運び ました。その時のに”たまり醤油”の師匠と 出会い醤油作りを教えてもらい、また、お伊 勢参りの際には奈良の三輪素麺で素麺作 りを学んだそうです。どちらもきれいな水と 多くの塩田があり良質な塩があったからだ と思いますが、あるものをうまく活用し、外 から新しい文化を入れて拡げるのに長けた 土壌なんです。それに倣って資本も含めて、 島外からの力を借りながら、うまく自分たち の魅力を広げていくことができるはず。その ためにも小豆島が今持っている潜在力を伝 えていくこと。また先人の人たちが作ってき た土地で商売するって、持続可能な観光を 目指すのであれば、“俺たちが来てからうま くいった”じゃなくて、何か困ったことがあっ たら助けてもらえる地元地域の人との連携 や応援がなければできない。災害時は言わ ずもがな。一時期はワーケーションだ、美 術館だ、ということもありましたが、取り組ん ですぐに観光需要が増えたり、ましてや人口 が増えたりすることはなく、丁寧に地域に魅 力を伝え、その魅力を感じて関わってくれる 関係人口を、志高く増やしていきたい。小豆 島には、どこにも負けない素晴らしいものが ある。現状に頬かむりして目をつぶれば、漫 然とやり過ごすこともできるけれど、申し訳 ないけどね、やっぱり誰かを信じて立てなが らみんなで頑張っていく姿を見せたい。それ が小豆島プライドです。プライドは捨てたら ダメなんです。それが結果、映画の製作委 員会や観光協会の中で、まとめていく仕事 を引き受けてきたことにつながっているかな あ…。ここは京都の東映太秦映画村さんみ たいに大きくはないですけど、北大路欣也 さんが“これぐらいのサイズで自然と一緒に なっていることは、すごく魅力的だ”って言っ てくれました。私もそう思ってます。だって、 ここで映画村の海岸縁に座ってコンビニの コーヒーを飲んでいるときが、なによりほっ とします。多分20年後もね(笑)」。

  • 小豆島で、かどや製油が営みを続けることは、「人とつながる未来への想像力」。安政も昭和も令和も、変わらずここにあります。

    関 圭吾さん Keigo Seki 土庄町出身/1995年入社/入社後、研究室・製造現場(約1年)・品 質管理などを経て本社品質保証部勤務の後、2024年4月から小豆 島工場事務部 部長。 坂本 貴志さん TakashiSakamoto 小豆島町出身/2004年入社/入社後品質管理部において、製品分 析・原料分析・農薬分析、ごま油の充填管理などを経て、工場の安 全な労働環境整備に従事。 山本 隼汰さん Hayata Yamamoto 土庄町出身/2023年入社/事務部経理課/大学時代は、体育系学 部にて運動栄養学を学ぶ。 だれもが知っている持ちやすい形で黄 色キャップの純正ごま油。かどや製 油株式会社がここ小豆島で1858年から160 年以上、小豆島で生産し続けている。小豆島 の農家が、信頼と繋がりで菜種やごまを持ち 寄り搾油したのが創業の原点。島産品の素 麺「島の光」にも使われる、香りが高く美味 しいかどやの純正ごま油は、太平洋戦争を経 て、1965年に初の家庭用商品「正胡麻油」 の販売を開始すると、瞬く間に生産量が拡大 し、今や世界一の純正ごま油メーカーに。永 きにわたるごま油を通じた“営み”に向き合う 小豆島出身の3名に、島のこと、ごま油のこと、 小豆島のミライについて話を伺った。  1995年に入社し、昨年4月から小豆島工場 に勤務している関圭吾さん。就職先として地元 「小豆島」というところが、決定のポイントに? 「2つのつながりから、です。恩師からお声 がけいただいたつながりと、生まれ育った場 所や人とのつながりです。自分のルーツでも ある小豆島で働けるっていうのは、大きな理 由の一つ。帰ってきて思うのは、歳だからか もしれませんが、今まで当たり前だった鹿島 の海の景色を改めてキレイだなあと。かどや は、実際のところ、入社するまで印象が薄い んです(笑)。こんなにも大きないい会社だっ て、私、知らなかったんですよね…。工場見学 に小学校時代に来たかどうかも記憶が定か ではないくらい。工場の前の海で釣りをして いたのは覚えてるんですけど。正直、特段意 識はしていませんでした」。  島外の大学を卒業後、2023年に島に戻り 入社した山本隼汰さんも、こう語る。 「大学で小豆島を紹介するときに、オリーブ やそうめんよりも、ごま油の話のほうが、伝わ りやすかったんです。僕は工場から近い、土 庄中学校だったんですけど、匂いが来た時に はああ、天気が悪い、なんて話をしていまし た。関さんと同じように、島を出てからの方が 印象としては強いんです。でも、それまではか どやに接する機会はなく、工場に近づいたこ とも、来たこともありませんでした。」  2004年に入社就職した坂本貴志さんは、祖 父母が素麺を作っていて、ごま油にはなじみが あったという。「我が家は今思えば、かどやのご ま油があり、素麺に塗っていました。この匂いは 港でも同じ匂いがしてました。でも入社するまで、 港から工場へ向かう道に入ったことがなかった (笑)」。  入社前までは、土庄港そばにあるかどやの 工場や、ごま油のつながりをあまり意識してい なかったという3人が今、160年以上続く営み に向き合う毎日の中で感じていることは? 「今、この工場で働く私たち従業員の8割以 上は小豆島出身です。パートさんやアルバイ トさんを含め約200名、その家族まで考える と、1000人近くの島の人たちの暮らしにかど や製油が関わっていることになります。島には 『肥土山の山本さん』と言えば『あのおじい さん、知ってるよ』というように、地縁的なつ ながりが強いですよね。そのつながりが『かど やの山本さん』として受け継がれ、自然と協 力が生まれる。良くも悪くも悪いことはできな い(笑)。島で暮らす人たちがいる団結力って いうのは一つの特徴かなとは思いますね。そ ういった意味では地域とは密接な関係でやっ ていけたら。島で働いていて暮らす人たちが 健康で、自分たちの島を誇りに思えるような 場所であってほしい」(関さん)。 「先日、工場で、ゴミの分別を間違えてペット ボトルの箱に缶を入れてしまったんです。数時 間後に気づいて戻り再び箱を開けたら、自分 の間違えた缶を含めて、ひとつ残らず綺麗に 分けられていました(笑)。支給されている制 服を掛けるロッカーのハンガーが、同じ方向に 先輩が全部直したら、後の人はみんな同じ方 向に並べるんです。もしかして知り合いかもし れない、制服を洗う島のクリーニング屋さんを 慮って、回収時に楽ができるように、と。小豆 島の人はちょっと控えめで、多くは語らない反 面、結びつきが強いからこそ、自分の後に続く 仲間の行動を想像しながら、何かあった時に は団結して協力する姿勢があります。このつな がりを前提にした想像力から、暗黙のうちに 次の行動、団結へつながっています。当然、丁 寧な製品づくりや品質管理にも影響していま す。小さい市場かもしれないけれど、僕が入っ た時から業界のトップシェア。これからも常に トップを走り続けるための努力をしていければ と思います」(坂本さん)。  普段は見過ごされるような些細なことかも しれない。しかし小豆島での営みの中で、次 につながる人を想う力が基礎となって繰り返 される姿勢と行動の積み重ねは、確実に次の 世代の営みのタネになり、花を咲かせ、実を 結ぶ。江戸時代の小豆島の農家さんが持ち 寄ったごまから油を搾るという小さな営みも、 地縁のつながりから助け合い、思いやり、次 の世代を想う「未来の想像力」がゆえに、時 を超えてその想いが共同体やコミュニティを 支え、“かどや製油”として継承されてきてい る。令和の今、小豆島の工場で働く人にも、こ の「未来への想像力」は創業時の“角屋製油 所”から引き継がれ、166年の時を超えて確 かに息づいている。   最後に、一番若い山本さんに小豆島のミライを伺ってみた。 「島から離れていた時、小豆島は帰ることが できる場所としてあり続けていました。島の外 に居る人たちが、ふとした時にいつでも帰って 来られる場所であり続けるために、小豆島で 今、営み暮らす僕たちが、何ができるか? 次は私たちの番だと思っています」。

  • 観光に消費されるのではなく観光で営みを続ける島へ       

    ― 小豆島、持続可能な観光への挑戦とその未来 ―― 岡田恵麻さん 土庄町 商工観光課主事 片岡琴未さん 小豆島町 商工観光課 主任主事 松田美夜日さん 一般社団法人 小豆島観光協会 地域おこし協力隊 小豆島、持続可能な観光への挑戦とその未来 ― 「持続可能な観光地」への取り組みとは、大 げさな目標ではなく、島で暮らしを営む一人とし て自分たちの未来をつくるために何ができるか ――。その問いから、3人の挑戦は始まりました。  2024年1月に“観光により消費される島では なく「観光により持続できる島」を目指す”の ビジョンのもと小豆島観光協会・小豆島町・土 庄町の三者共同で、持続可能な観光の国際 的認証機関「グリーン・デスティネーションズ」 (以下GD)の審査に挑戦し、見事シルバーア ワードを獲得しました。日本では、小豆島を含 め5地域しか選定されておらず、世界的な「持 続可能な観光地」となりました。  GDは「世界持続可能観光協議会」から認 定を受けた国際認証機関。ブロンズ~プラチ ナまで4レベルの段階的な表彰制度を設けて おり、観光地管理・自然と景観・環境と気候・ 文化と伝統・社会福祉・ビジネスとコミュニ ケーションの6分野/84項目に及ぶ評価を通じ て観光地の持続可能性を点数化します。審査 はいわば“観光地の上場審査”。膨大な書類 作成と庁内、地域の協力が必要でした。この 挑戦の中心に、島の未来を見据える3人の若 き担い手たちがいました。  挑戦の始まりは、2021年。小豆島町で初め て世界の持続可能な観光地TOP100選の申 請に取り組んだのは小豆島町商工観光課の 片岡琴未さん。 「棚田百選に選ばれている中山千枚田は小豆 島を代表する景勝地。でも少子高齢化の影響 で離農が広まり地域の元気が失われかけてい ましたが、地域の人々が「中山棚田協議会」 を発足。景観保全の取り組みを行うとともに、 2010年に映画「八日目の蟬」のロケをきっかけ に伝統行事の虫送りが復活。観光の力で風 景・文化を継承し、地域が再生していくという 物語です。一方、観光客の想定外の振舞いに は“地域と観光客の間の優しい距離感”の配 慮を促すなど、小豆島ならではの活動で申請し ました」。  こうして小豆島の再生の物語が、世界に向 けて初めて発信されることになります。翌2022 年には、土庄町が観光庁の「日本版持続可能 な観光ガイドラインモデル地区」に採択。中心 となったのは、大学卒業後に新卒で土庄町役 場に就職した小豆島出身の商工観光課、岡田 恵麻さん。 「小豆島霊場第54番札所の宝生院に“応 神天皇の御手植えの木”と伝えられるシンパ ク(真柏・ヒノキ科の常緑針葉樹)があります。 遠くから見ると、多くの木が折り重なって森のよ うに見えるのですが、実は、樹齢1600年の1 本の木。多くの人が、見学参拝に訪れ、根が踏 まれて腐食の危機があったこの巨木の保護を 契機に島の文化に根ざした観光のあり方に向 き合うようになりました」  2023年4月、小豆島町と土庄町は“島はひと つ”という方針のもと、島の観光窓口を「小豆 島観光協会」に一本化。地域おこし協力隊とし て着任し、観光協会スタッフとなった松田美夜 日さんも加わります。 「「持続可能な観光地」に取り組んでいる小 豆島を知り、観光と環境の分野に惹かれて地 域おこし協力隊としてスタッフになりました。そ れまで外国人留学生の通う専門学校で日本語 を教えていました」。  こうしてチームとなった3人は、世界で初めて “2つの自治体による共同申請”というスタイ ルで「グリーン・デスティネーションズ・アワード (表彰制度)」に挑戦します。審査項目は多岐 にわたる項目の総合評価。3人だけでは到底 カバーできないため、庁内の他部署や事業者 さんや地域の皆さんの協力が不可欠。 「町長をはじめ、関係する皆さんに丁寧に説明 し、改めて賛同と協力をお願いしました。単独 で始めた時と比べると、2人がいてくれて本当 に心強かった!審査は、審査員が来島されて、 丸々2日間のモニタリング。「銚子渓おさるの 国」にも審査員をアテンド。国際的な基準でど のように解釈されるのか、初めてだったのでド キドキでした(笑)。審査の最終結果は期待 を超えてシルバー賞!ほっとしました」(小豆島 町:片岡さん)。 「2つの町での共同申請のため、2町の比較で 優劣の指摘されると苦しい場面もありました。 今回のシルバーアワード獲得は、島の皆さん や町職員の皆さんに私たちの取り組みに対す る姿勢を広く周知することができました」(土 庄町:岡田さん)。  この結果を、具体的な取り組みへの契機に したい、という松田さん。 「事業者さんからは“アワード獲得でお客さ んは増えるのか?”と聞かれます。今後は具体 的な取り組みを通じて、事業者さんや島の皆さ んに様々な視点と方向からその価値をお返し できたらと思っています。私たちはこの取り組 みが“小豆島の未来のための意志”であるこ とを具体的な行動で示していきたい。普通だと 思っていた島の暮らしの中に気が付かなった 魅力があります。「虫送り」火手販売の例にも あるように、持続可能な観光への事例を増や していきたい。また、国際認証には、ホテルや 旅行会社向けもあるので、民間事業者さんが 無理なく取り組めるようサポートしていきたいと も思っています」(観光協会:松田さん)。 「Sense of Place」―― その土地の記憶とにおいを、未来へ 最後に片岡さんは静かにこう語ってくれました。 「私もこの島に生まれ育った町民として10年後、 20年後も、自分が育ってきた島のままであって ほしいとずっと思っているんです。私が育って きたこの「普通」をずっと続けたいなって。私 が結婚して、子どもが生まれ、その子が大人に なった頃に、今と変わらない文化とか景色が あって、友達も先輩もいっぱいいて。こういう状 況が続くことが、持続可能な観光に取り組む ゴールだと思います。私たちや家族や子どもや コミュニティがどう幸せで豊かに過ごせるかっ ていうのが、本来観光がやるべきことだと思う んです。島で暮らす人間の一人として、ずっと楽 しく豊かに、このきれいな島で生きていくため にやれることは何なのかを忘れずに“持続可能 な観光”に関わっていきたいと思っています」。  GDの創設者アルバート・サルマンさんは、 「持続可能な観光」について、こんなふうに 言っています。 「風景や文化が消え、どこにでもあるような リゾートに置き換わるなら、その土地の記憶 も失われてしまう。最も大切なのは「Sense of Place」――これまで以上に、世界中で失われ つつある「その地域や土地が持つ、記憶やに おいを感じる感覚」が昨今の「観光の持続可 能性」において最も重要な要素だと考えてい ます」(※)。  大切なのは、島に暮らす人が営みから未来 を考えつくる“持続可能な観光”。小豆島の3 人の挑戦は、まさにその“原点”。この美しい島 で、暮らしを営み続けること。それこそが観光 の未来を支える持続可能性なのです。

  • 小豆島のミライvol.4          寒霞渓の紅葉が             見られなくなるかもしれない!?

    三浦崇寛さん | 寒霞渓ロープウェイ Takahiro Miura | Kankakei Ropeway 未来には、寒霞渓の紅葉は見られなくなるかもしれない!?瀬戸内随一の渓谷美・寒霞渓。紅葉の名所として知られる一方、常緑樹の繁茂や登山道の暗さなど、景観や歩行環境の課題が積み重なっている。 「守るか、使うか」「誰がやるか」ではなく、 島の宝として寒霞渓の価値をどう高めていくか? 寒霞渓は‶島の宝"。 この美しい渓谷は、島で営み暮らす人や訪れる旅人にとって 自然と共に生きるミライを考えるための‶渓(たに)"でもある その現場にロープウェイの運営を通じて、向き合ってきた 寒霞渓ロープウェイ(小豆島総合開発株式会社)の三浦崇寛さんに話を訊いた 寒霞渓の紅葉は毎年11月が見ごろだ。 海と岩肌、空と奇石。そこにウリハダカエデ、イロハカエデ、イタヤカエデ、岩シデやイヌシデ、アカシデ群落などの落葉広葉樹が赤や黄色に渓谷を染める。その色を際立たせるのはアカマツやアカガシ、ウラジロガシ、ウバメガシなどの常緑樹や、岩に着生するシダ植物のイワヒバなど。これらが空と海に重なり合い、秋の寒霞渓は「錦の屏風」と称される息をのむほどの景観だ。ロープウェイで山頂まであがり、展望台周辺を巡るだけで、まさに「一歩一景」。 この美しい景色がなくなるかもしれない…って本当ですか ?    今回話を聞いた寒霞渓ロープウェイを運 営する小豆島総合開発株式会社、営業シニ アマネージャーの三浦崇寛さん。高校卒業 後、いったん島を離れるも、観光の仕事がし たいとの想いで、寒霞渓ロープウェイの運営、 PR、営業の仕事に就き、今年で26年目。お すすめは、ロープウェイで上った山頂の先の 「四望頂」。手前に大きな岩があり、烏帽子 岩があり、渓は海へとつながる紅葉の絶景ポ イントだ。 「今でも素晴らしい景観ですが  昔はもっと綺麗だった、と言うんですよ 」 「寒霞渓のPR素材を集めるため、過去の文献や写真を調べるんです。島内外のカメラマンも、寒霞渓の美しさに惚れ込んで撮影をしに来ます。今と昔の写真を比べたりも。そうするとやっぱり、昔と比べて今の紅葉は“ぼやけている”ような気がします。地元のカメラマンからは「昔はもっと色づきが良かった」とも。昔の写真は色褪せもあって断定は難しいですが、この季節は歩くたびに紅葉の景色が“ぼんやり”してきている感覚があります」。 紅葉が“ぼやける”理由 寒霞渓の紅葉を評して「ぼやける」と言った三浦さんは、こう話をつづけた。 「コロナ禍期に、環境省の方と話す機会がありまして、景観についての話を伺ったことが あるんです。寒霞渓は、瀬戸内海の国立公 園を象徴する場所でもあるので、手つかずの 自然やその景観をできる限り残す区域(第1 種特別地域)として保護されています。学術 研究や最小限の施設や景観の維持など、自 然保護上やむを得ない場合以外は、開発や利用は規制されています。景観については、 西日本を中心に備長炭としても有名なウバメガシも多く、長く放置されると、過繁茂状態になり、森に光が十分届かなくなります。昔は、山に入ってこの木を薪にして暮らしの大切な資源としていたわけです。間伐によって光と風を通すことで結果、登山道を歩くと、今は茂った樹々で一部が見えなくなってしまった“表十二景・裏八景”の奇岩、奇石がすべて楽しめたといいます。森林の世代交代を促し、健全な状態を保つ取り組みが鮮やかな紅葉の基盤を作っていたんです。それが暮らしの変化で手入れの営みが薄れ、常緑樹が伸び、見通しが失われてきたのだと思います。土庄町側には森林組合があり、径木を運ぶトラックを見かけることもあります。寒霞渓にも昔、木材運搬用の索道があったといいます。ただ、今は系統だった林業的循環があるかというと、乏しいかもしれません。 それと、もうひとつに、紅葉に色付きを左右する朝晩の寒暖差がなくなってきていることも影響があるかもしれません。標高600mに達する寒霞渓は寒暖差が大きいはずですが、最近は、夜の気温が下がらない影響から、色付きが「ぼんやり」としてしまい、紅葉時期の予測も難しいと感じます」。 寒霞渓を訪れ楽しむ利用者目線での課題はいかがでしょうか? 「今、欧米から日本の美しい自然を求めて、 訪れる人たちも増えている中、 日本だけでなく、世界の方々に小豆島の 自然の美しさを体験してほしいですね。その中でも寒霞渓にある2つの登山道(「表十二景」と「裏八景」)はロープウェイと組み合わせて山頂の眺望はもちろん、道すがら、寒霞渓の様々な表情を体験できます。光が差して風が流れ、木漏れ日の山道を歩くことで、癒しや自然の力を感じるトレッキング文化がある欧米の旅行者には絶好の場所。低山ハイキングとしても寒霞渓は魅力だと思います。また、今年は自転車のヒルクライムレースも開催されました。ロープウェイもある寒霞渓は1年を通じてアクティブな旅行者が世界から集まる場所になれるのではないかと思っています。しかし、2つの登山道がどちらも鬱蒼として暗く、登山者を受け入れる環境がまだまだ追いついていません。景観の維持と合わせて、山道の整備も皆さんと考えていきたいと思っています」。 以前は紅雲亭から見えるはずの「通天窓」という奇岩(天に通じる窓のよう穴が開いた岩)が、木々が茂り、見えなくなり、景観を損ねるとの理由で、役場と財産区の皆さんが協力して間伐をした実績がある。また、島の山道と言えば、お遍路道。常光寺の住職さんが中心になって、道普請をしながら歩く“チョキチョキ遍路”といった地道な活動も。寒霞渓をはじめとした島の自然を「島の宝だ」と語る、 三浦さんと同じ想いの方も多い。 「 島の宝」をどう育てていくか? 「定期的に役場の方も予算を付けて台風の後 などに町道や登山道の見回り、枝打ち、展望 台の整備など、軽微なものは実施しています。 しかし、景観そのものを維持するために、 誰がどう、できるのか。山道も、紅葉も現在の状況が“日常の風景”となっているなか、民間単体では、とても難しい。また、国立公園といえども、私有地も含まれ、所有者もそれぞれ違うので、役場だけでも厳しい。「神懸山保勝会」と いう景観保全を目的とした団体が昔からある のですが、高齢な方も多く、取り組む活動資 金も少なくハードルが高い。だからこそ、誰が やるかではなく、「行政も民間も島の人たちも、 みんなで“島の宝”を守り育てる」。島全体で 寒霞渓を“島の宝”として共有し、協力してひ とつずつ寒霞渓の価値やポテンシャルを高め ていくことが大事だと思っています」。 あたらめて三浦さんと一緒にロープウェイ の山頂駅から第一展望台に行った。三浦さん、 寒霞渓のミライはどんな感じですか? 「先人が大切に守り育ててきた“寒霞渓”という島の宝を、今あらためて私たちが受け継ぎ、 再び磨き始めたところです。昨年、日本を訪れた外国人旅行者は3,600万人を超えて過去最高となり、2030年には6,000万人に達すると予測されています。それでも寒霞渓を知らない人は、日本国内はもちろん、世界的にもまだまだ多い。日本にはこうした美しい景色があるのです。  紅葉だけでなく、春の新緑、夏の涼やかな渓谷、冬の凛とした雪景色など、四季折々に 表情を変えるこの渓谷や、ロープウェイからの大パノラマ、山道を歩く体験は、ここでしか味わえない感動です。100年先にも提供し続けていける可能性を秘めています。もちろん、景観維持や山道保全といった課題や危機感はありますが、だからこそ今、私たちも訪れる人々も、寒霞渓そして小豆島の自然の恵みを享受できることに大きな価値があるなあと。   最近ではAIドローンによる空撮記念撮影など、テクノロジーを活かした新しい体験の提供も始まりました。多様な視点や立場を持つ人々が垣根を越えて協力し、この美しい寒霞渓を守り育てていくこと。それこそが、次の世代へとつながる営みだと思います。寒霞渓は「島の宝」であると同時に、訪れる方とともに自然と共に生きる未来を考えるための場でもあると思っています」。

  • 特集02 小豆島のミライ ~島で営み続ける、ということ~        

    今回の「小豆島のミライ」では、昨今注目されている“持続可能な観光地”を考えることからスタートしました。資本を投下し回収と成長を未来永続させる命題から生まれた日本語にはなかった“持続可能”という言葉には成長の臨界点は想定されず、永遠に成長維持継続=持続可能性を追及するための意味もあるからです。 ゆえに、「回収と成長」のための延命を求め、本質と実態が伴わないままの向き合いになる企業や自治体が出ることも人の性(さが)として、決して賛同はしませんが、哀しく理解できたりもします。 翻って、現実。 自然は、人間の経済なんてお構いなしです。全ての命は、必ず終わりを迎えます。当然、持続はできません。 しかし、死んだとて、何事もなかったように、自然は営み続けます。次の種または世代に、空間的にも、その席を譲るという理です。では、「人の暮らし」はどうでしょうか? 不幸にも自然のいたずらひとつで、人の営み・暮らしはひとたまりもないことは今も昔も同じです。 それでも、人は目の前の自然の恵みを享受し、そこに住み、次へバトンを渡し、暮らしと営みを続けてきたことは、目の前に広がる棚田、小豆島八十八ヶ所霊場、農村歌舞伎などがまさに証左です。 この島で営みが続いてきたのには、そこには、人がつながり、ミライへの意志と想像力があるからです。 今回インタビューをした小豆島町商工観光課 片岡琴未さんは、ミライへの意志と想像力をこう言葉にして話してくれました。 「私は生まれてこの方、小豆島を嫌いになったことがなくて、他に選択肢はないほどに、世界一いいところだと思っています。周りを見たら誰一人、同級生がいなくなっていたことがあっても、出て行こう、と思ったことはありません。今、私のような存在はなかなか貴重なんです。もし、島から離れたとしても将来の選択肢として、郷土に自信を持って“当然、島に帰るやろ”と素直に言える子らが、この島に、いっぱいになってほしいなあ、と思います。それが当たり前に思える人たちが、もっと増えるようにしていくのが、島の行政をはじめ、観光分野に携わっている人間の今やらないといけないことだ、と思っています」 愛する豊かな土地で、営み続けること。 自然の恩恵と、人のつながりと暮らしから生まれる文化が、島の観光の基盤です。自然、暮らし、文化は古くなったからと言って使い捨てて、新しいものを買ってくることもできません。 永く付き合い使えば、確実に育っていきます。もし傷んできたら、暮らしと営みを続けていくため、自分たちの未来のつながりを想像し、繋がりを紡ぎなおして再生させること。再び新しい命を吹き込むこと。これは明日だけの為の経済的なモノサシだけでは、とても割に合わないかもしれない作業です。 しかし10年後、20年後を見通し意志と未来への想像力を持った人たちの、地に足をつけて舞台袖から支えている後姿が、取材を通じて見えてきました。 (小豆島倶楽部 2025 春夏号 「小豆島のミライ」冒頭より)

  • 僕が「寒霞渓」と名付けたわけ         (藤澤南岳「寒霞渓説」(『神懸山志』)より編集部抜粋抄訳)

    小豆島には、大きな山が東西に数キロにわたって横たわっており、村々はその山の麓を取り囲んでいます。村々から山頂に至るまでには、各所に道が通っています。瀬戸内海から見るランドスケープは、瀬戸内海において、ひときわ美しくまさに絶景です。この山は険しい岩山を形成し、数え切れないほどの峰がそびえ立って、どれも土がなくむき出しの岩がそびえます。古代に大きな嵐がこの地を襲い、荒れ狂う波が山を打ち付け、土や泥をえぐり取って運び去り、今は骨(岩石)だけ。だから古い松や柏の木が繁茂することもなく、谷間に藤や若い楓が点々と生えています。この風景を、僕の友人の冲堂くんは、こんなふうに言ってます。 「五歩歩けば、景色が変わり、十歩歩けば、また異なる風景が広がる。まだ一つの峰が過ぎ去らないうちに、次の峰が姿を現し、さらにその後から新たな峰が繋がってくる。ひとつの峰が分かれて数多くの峰となることもある。まるで人が帽子を載せているような形をした峰もある。これこそがこの景色の魅力なんです」。まさに、これが見たくて、多くの人々が訪れて遊びに来るほどの名所になっています。  小豆島に住む、中桐絢海くんと森遷くんが、谷の入り口に草堂(小さな休憩所※のちに紅雲堂)を建てて、訪れた人々が途中、雨を避け、疲れを癒せる場所を作った、って友人の冲堂くんから手紙をもらったんです。中桐くんと森くんの二人は草堂を建て、これにイケてる名前を付けよう!としたのですが、そもそも、この場所の素敵な名前がないって、悩み始めたらしいんです。「鍵懸(かんか)」「神翔(かんか)」「浣花渓(かんかけい)」ともこれまで呼んでは見たものの、どうも音や意味がしっくりこない。それで素敵な名前をつけてほしいと僕に頼んできたのです。  僕もこの場所を訪れた時、ちょうど11月下旬の頃で、冷たい霜が降り、草木は寒々としていました。谷の岩肌は風で冷たいのですが、空には紅葉で真っ赤に染まった霞が漂い、足元にも赤い霞が広がっていました。その風景に、自分が身も心も、まるで墨絵で描かれる仙人になったような気分!この霞は、春の暖かな陽気の中に浮かぶものではなく、このすこし寒い季節にこそ現れるのです。寒さが厳しくなるほど霞は濃くなり、霜が深く降りるほど霞は赤く輝くのです。  そこで僕は「寒霞渓」と名付けました。この神さまや仙人のいかにも住んでいそうなこの場所に、「寒霞」はその意味合い、音、字面も、ふさわしいのではないかしら。立派な草堂を作り、疲れを癒す場所をつくって訪れる皆さんをもてなそうとしている二人なら、きっと気に入ってくれることと思います。 Profile 藤澤南岳(1842-1920) 泊園書院第二代院主。天保13年(1842)生まれ。慶応元年(1865)、24歳で家督を継いで高松藩の士分に列せられるとともに書院を主宰する。慶応4年(1868)、高松に戻り、藩の方針を佐幕から勤皇へと劇的に転換させて藩滅亡の危機を救う。明治新政府の出仕要請を断り、明治6年(1873)、32歳の時、泊園書院を大阪船場に再興。南岳は当代随一の学匠として名声高く、全国から学生が集まり、書院の黄金期を作った。学んだ門人は五千人を超えるとされ、関西を代表する文化人として活躍した。(関西大学泊園記念会「泊園書院」パンフレットより)

  • 成島 出 監督インタビュー:小豆島の皆さんは地域の共有財産になる“映画の威力”を『二十四の瞳』以来、本当よく知っているんです」(「小豆島倶楽部」2024夏号より)

    小豆島には、二つの誇るべき映画がある。 木下惠介監督の『二十四の瞳』。 もう一本は角田光代の同名小説を成島出監督の元で映画化された『八日目の蝉』だ。 生まれたばかりの子どもを誘拐し、母と偽り過ごしていた女の誘拐事件を、誘拐された子 の視点を中心に、そこに渦巻く人間模様を紡ぎ出していく、一度見たら忘れられない作品。事件経過の時間軸を行きつ戻りつしながら、事件の背景にある“物語”が浮かびあ がる成島監督の圧巻の演出。胸が詰まるほど切なく痛い登場人物の心情を癒し覆う小 豆島の風景が、さらに観客を物語へ引き込む。それは映画『二十四の瞳』における小豆 島の悠久で穏やかな自然が舞台装置となり、その真逆のメッセージが観る者の心に突き 刺さるのと同じように。映画『八日目の蝉』の成島監督に「小豆島のミライ」を伺った。 ――小豆島で『八日目の蝉』を撮るきっかけは? 「角田さんの小説はもともと好きだったので、新作ということで、本屋さんで買って読んだんです。直感的に“ 映画にしたい”と思い、日活と松竹のチームに相談したのが始まりでした。映画化の可能性が出てきた時点で、原作と同じく岡山から小豆島に入り、見て回りました」。 ――小豆島の印象はいかがでしたか? 「原作から虫送りとか、寒霞渓や農村歌舞伎の舞台などのイメージは持っていましたが、実際に行くと、一言で言えないぐらい、小豆島は素晴らしかったんです。まさに“島に呼ばれた”感じ。というのも、一人で小豆島をまわっていたその時に、そうめん屋さんへお昼を食べに入ったんです。すると、地元の人が撮ったという写真集が置いてあって。その中に「中山の虫送り」の写真があったんです。見た瞬間に惚れ込んじゃって。中山の千枚田を炎の列がずっと下っていく印象的な写真でした。そこから構想が始まっていきました。撮影当初は中山の千枚田は整備されておらず、撮影時にはみんなで草刈り(笑)。今は本当に綺麗になってます」。 「中山の虫送り」とは、夏生(夏至から11日目)の頃に、火手(ほて)と呼ばれる松明を田にかざしながらあぜ道を歩く、300年前から伝わる島の伝統行事だ。稲ムシと呼ばれる害虫を退治しながら練り歩き、豊作を願う。連なる光の列が棚田を幻想的な風景に変える。映画でもこの行事が登場人物の運命を変えることになる。当時は地域の人口減少も影響し、肥土山地区でしか、執り行われていなかった。 「取材をすると、「中山の虫送り」はもう10年近く前からやっていないとのでした。映画化が決まりスタッフで中山地区の皆さんに再現の相談をしに行くと、開口一番「再現なんてとんでもない!」とあっけなく断られてしまって。地元としてもやめたくてやめたわけではないようでした。火を扱うものですから、消防の問題もあり、事前の申請から現場の処理まで、もろもろ自分たちでは人手が足りない・・・運営が大変なので勘弁してほしいというわけでした。でも僕が“どうしても撮りたい、なんとか説得してくれ”とスタッフに話すものだから、チームの面々が地区の皆さんに一升瓶を抱えて日参し、お酒を毎晩飲みながら頑張ってもらったんです。最後はしょうがないな、って最終的に了承してもらいました(笑)。  再現するにあたって、行事の流れに従ってやろう、と段取りを地区の皆さんに訊くと、 中山農村歌舞伎の会長さんが「とーもせ、灯せ」と、みんなで掛け声をかけて、火手を 持ってみんなで棚田を練り下った、というんです。“それ、いいじゃないですか!それも復活させましょう!”ということになり、火手に着火する始発点から地区の人たちとスタッフもみんなで「とーもせ、灯せ!」って掛け声をかけながら撮影をしました」。  この「中山の虫送り」は本作品の撮影で再現されたことを契機に、地元自治会有志などが2011年に復活させ、今や島の風物詩として定着。この独特な掛け声は、虫送りが行われる半夏生の夜に小豆島霊場4 4番札所・湯船山から春日神社まで、毎年、響き渡っている。 「地区のみなさんと、実際にやってみたら、掛け声も含めて、すごく盛り上がって。映像は思った通り、本当に綺麗でした。おかげさまで映画が賞を頂き話題になったこともあり、せっかくだから復活させようと、地元の方から声を上げてくださったんです。今こうして定着しているのは、本当に嬉しい。撮影中は虫送りの件も含めて、地元の方々とお酒を酌み交わしながら腹を割って話す機会も多く、本当に日々助けてもらいました。だからこそ、日本アカデミー賞をはじめ、授賞式の壇上で、いつも「小豆島の皆さん、元気ですかぁ!」ってマイクを使って語り掛けていたのは、キャストもスタッフも島の皆さんへの想いが全員にあったからだと思います」。  映画の撮影ロケ地を訪れ、その世界観に没入する「聖地巡礼」や「シネマツーリズム」はよく知られている。映画公開後の集客を目指し、自治体出資のフィルムコミッションがロケ地の誘致活動を展開する例は数知れず。しかし、映画側は観光映画として撮っているわけではない。資本の論理で誘致されたからといって、作品が持つメッセージや世界観を支える演出素材にならなければ、そこでの撮影は当然行わない。CGが主流の今、制作者側は作品にとって“ここでなくてはならない場所”を真摯に求めるからだ。受け入れる側には作品への深い理解と、公開後の作品を財産として地域に遺し、作品の魅力を自ら発信し続けていく志がなければ、この施策は一過性の消費で終わる。形あるものは忘れ去られる宿命がある以上、作品を心底愛し、長く伝え続ける人とその意義の継承も必要に。小豆島はそれを『二十四の瞳』で70年以上実践している日本で唯一の地域といっても過言ではない。成島監督は小豆島の皆さんが協力してくれた理由をこう話す。 「やはり、小豆島に映画『二十四の瞳』という映画があるということに尽きます。島の皆さんは映画『二十四の瞳』から始まった“1本の映画の威力”を本当によくご存知なわけです。だから『二十四の瞳映画村』が寒霞渓に次ぐ観光名所になっているのも、その結果です。僕らが口説き落とせたのも、最終的には映画『二十四の瞳』がどれだけみんなの共有財産になったかということを小豆島の皆さんがよくご存知であることがすごく大きかったと思います。だからこそ映画撮影ということに対しての協力体制、向き合い、態度が他のエリアとちょっと違うんです。もちろん島の人が持つ独特の優しさや人情深さの掛け算は当然あります。撮影前に、映画村へご挨拶に永作博美さんと渡邉このみちゃんと行き、お話をさせてもらう機会がありました。『二十四の瞳』のロケ地も行きましたが、当時の風景はほとんど残っていないんです。でも、島の皆さんの力で、こんな風に島に財産として遺っている映画一本の凄さを改めて感じました」。 2 011年の公開から13年。映画『八日目の蝉』の聖地巡礼をきっかけに、『二十四の瞳』を知る若い世代も多いはず。また逆も然り。この現象は、成島監督が言う“映画の威力”であり、時間をかけて丁寧に映画を島の共有の財産・文化として遺そうとする意志とその行動ゆえ。 最後に、成島監督の小豆島20年後のイメージを訊いてみた。 「ロケハンをしていて「小豆島八十八ヶ所霊場」は素晴らしかったんです。特に夏至観音の第1番洞雲山とか第4 2 番西之瀧は圧倒的。いわゆる“キラキラした集客観光地”では一切ないんですけど、同行二人で遍路する人たちの風景が相まって、小豆島に宿る神々の独特な世界なんです。行ってみると本当にホッとして、心洗われます。20年後には新しい観光名所も素敵なホテルも増えるかもしれません。いろんなものが変わっていくんでしょうが、小豆島のこの“神々の世界”だけは2 0 年後も変わらずにいてほしいなっていうのが一番の願いです。やっぱり古いものはいいんですね。今よりももっと複雑な社会に将来なっていくことを考えると、心を洗濯して癒して再生回復する旅は、需要が高まるはずです。小豆島の神々に逢いに行くようになるんじゃないかな。都会に疲れた人たちにとって、こぢんまりとした小豆島の神々との触れ合いっていうのは、『八日目の蝉』の永作博美さんが演じた誘拐犯“野々宮 希和子”がまさにそうだったように、すごくホッとすると思うんですよ。映画のセリフの中でも、「この島には“かみさん”がいっぱいおるんや」と、希和子は言うんです。崇拝対象の“ゴッド”ではなく、神聖ながら隣にいつも居て話を聞いて一緒に泣いてくれるような穏やかな“かみさん”。僕も八十八ヶ所の“かみさん”の隣にちょこんとおじゃまさせてもらっている感じで、撮影していました(笑)」。  映画「八日目の蝉」では一時の安寧の地“小豆島”で、誘拐した子と逃避行をする希和子の暮らしが描かれる。成島監督が話すように、小豆島は独特の自然を背景に古くから培われてきた“小豆島遍路”があり、お遍路さんは札所だけでなく山、海、木、石、空…など、すべての“かみさん”に感謝し、そのおかげを願う「祈りの島」。“かみさん”は、監督が描いた希和子と同じように、島に来る人たちにいつも穏やかに包み寄り添っている。多くの人が、小豆島の自然が素晴らしいと感じる理由は、ここにある。 「こんな場所だからこそ、島に呼ばれて、この映画を撮ることができた、という想いはあります。映画の後も、映画村の村長さんと親友になれたし、そうめん屋さんの親父さんとも仲良くなって釣りに行ったり。それ以来、ちょくちょく島に出かけて、ずっと仲良くさせてもらってます(笑)」。

  • 小豆島の風景の理由(にほんげんきペンギンe-books「小豆島倶楽部」より)

    伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)という神様が創った祈りの島、小豆島。 太古の時代より、人は島という大地、岩、石と共に生きてきました。 小豆島には、古くから自然への畏敬の念を基盤と、山や岩、川などの自然物が神聖なものとし、アニミズム(すべての個体に魂が宿るという信仰)が根付いています。山を開墾するにも、土と石と水と相談しながら石垣を築きつくった「中山の千枚田」は、対峙するものを分けるのではなく、一つになることを規範とする信仰と生活が一体化した自然と共存する暮らしのスタイルの象徴です。 昨今は、“スピリチュアル”“パワースポット”などといわれる隆起と噴火を繰り返しできた島の風景は、崇拝と祈りの対象として小豆島八十八ケ所霊場巡礼の旅(お遍路)、修験道、山岳霊場、岩石信仰 と深く結びつき、維持されてきました。島に訪れる人たちを魅了する、ある種のノスタルジーは、この大地への感謝と畏怖 ――“日本的霊性”の拠所――と深く結びついています。 17世紀初期、徳川から大坂城再築(1620~1629)の指示を受けた大名らは、石垣に使う良質な石材を求めて小豆島の各地区に採石場(石丁場)をつくりました。今でいう開発デベロッパーです。中世から続く修験道や辺路修行を基盤に「お遍路」の小豆島八十八ヶ所霊場巡礼システムが出来上がったのは、貞享三年(1686)といわれています。その後に、巡礼は盛況になります。つまり、採石場の開発の盛り上がり後、西国のデベロッパーらからの噂を聞いて巡礼・観光で小豆島へ足を運ぶ“お遍路さん”が多くなり、小豆島に八十八ヶ所霊場巡礼の受け入れシステムが確立したことになります。 小豆島に来た当時のデベロッパーたちは、観光客と同じように島の外からやってきて、この巡礼と霊場の存在に触れ、海に囲まれた大地だからこそ、畏怖が先鋭化された小豆島的霊性を体験したはずです。ここから小豆島の人たちがこの島で独自に育ててきた石に象徴される「大地」を崇めるスタイルに共感していたのではないかと思うのです。だからこそ、神聖な大地からの石の採掘は慎重かつ丁寧行われた可能性があります。つまり、江戸時代の小豆島において、小豆島的霊性は山岳信仰(お遍路)と石丁場の経済活動を調和させる重要な役割を果たした。自然への畏敬の念、アニミズムが本来持つ宗教的寛容さ、霊的実践と社会規範の維持が、信仰と経済活動の対立を最小限に抑え、持続可能な共存を可能にした。霊性が経済活動を倫理的に導き、経済活動が霊性を支えるという相互補完的な関係が築かれていたと考えられるのです。 外国人の方ならよくご存じの 『日本的霊性』を書いた鈴木大拙 氏の言葉から日本的霊性の持つ大地との関係性に触れる一部引用し紹介します。日本の仏教哲学者、文学博士である彼は、禅について英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した第一人者です。アメリカのビートニクのジャック・ケルアックらにも影響を与えました。 「霊性はどこでもいつでも大地から離れることを嫌う」(鈴木大拙全集八巻72頁)。 「生れるも大地からだ。死ねば死ねば固よりそこに帰る。・・・霊性の奥の院には実に大地の座にある」(同45頁) 「個体は大地の連続である。大地に根を持って、大地から出て、また大地に還る。個体の奥には大地の霊が呼吸している。それゆえ、個体にはいつも真実が宿っている」(同50頁) 「大地は言挙げせぬが、それに働きかけてくれる人が、その誠を尽くし、私心を離れ、自らも大地となることが出来ると、大地はその人を己が懐に抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う」(同118頁) 小豆島の石、岩、山に代表される風景は、その奥に“小豆島的霊性”があるからこそ、何事も差別せず、すべての生命を平等に包摂し、浄化し、許す大地のメッセージを訪れる人々にも瞬時にあたえてくれるわけです。これが“スピリチュアル”“パワースポット”といわれる理由であり、この霊性が21世紀の今でも島で出会う風景のいたるところ、また島で出会う人の心にしっかりと引き継がれていることを体験できるはずです。(にほんげんきペンギンe-books「小豆島倶楽部」より https://amzn.asia/d/bXFkZSj

  • 寒霞渓が日本初の国立公園になったきっかけは10人のインフルエンサー(にほんげんきペンギンe-books「小豆島倶楽部」より)

    1934年(昭和9年)に寒霞渓を中心とした瀬戸内海一円が日本の国立公園として最初に指定されてから今年で90年。今や、世界からこの奇岩と空と海の絶景を観に、多くの人が訪れています。この風景を、大切な郷土の宝物として、保全し末永く伝えていこうと、「神懸山保勝会」をはじめ、多くの人が尽力してきました。その神懸山保勝会の皆さんが寒霞渓のすばらしさを伝えようとした活動の一環で、1911年(明治43年)に、日本で初めての洋画団体で数々の英才奇才を輩出してきた「太平洋画会」(現在は太平洋美術会)の当世きっての人気洋画家10人を小豆島に招きました。そのツアー名は、「十人写生旅行」! 滞在は約10日。今盛んに世間へPRを兼ねておこなわれているプレスツアー(ファムツアー)であり、また芸術家を招致し作品創りを支援する「芸術祭」の先駆けです。小豆島を愛する先人たちは、(たぶん日本初かも)いち早く先進的で洒落た形でこの郷土の風景を世界に向けてPRしていたんです。10人とは、当初、中村不折、河合新蔵、大下藤次郎、鹿子木孟郎、満谷国四郎、高村眞夫、吉田博、中川八郎、小杉未醒、石井柏亭。中村不折画伯は、実際には不参加。その理由は「小豆島は前に2回も行ったし、最近体が調子悪いから、やめとくわ。もし画集とか出すなら後で参加するわ」ということで、実際は9人(笑)。油絵、水彩画、ペン画、鉛筆画などで瀬戸内・小豆島の日常と心癒される風景が当時の大人気洋画メンバーの指先から描かれ、大阪はもちろん、東京の新聞に掲載。当時のモダンボー イ、モダンガールでは水彩画ブーム真っ只中。この旅行には、大人気水彩画月刊誌「みずゑ」(現在は美術手帖別冊として発行)を発行していた大下藤次郎も参加するとあって、いわゆるバズった(!)わけです。 その後、参加した小杉未醒によって編集され『十人写生旅行』として発行されました。(もちろん旅行に参加しなかった中村画伯の絵もちゃんと入ってます。) この本の発行が日本初の国立公園としての機運を高めていくきっかけになりました、いまから100年以上前の日本のエピソードです。 現在、2024年。90年たちテクノロジーが進み、僕らの画材はスマホに変わりました。彼ら10人に想いを馳せて、シャッポをかぶり、SNSで写生旅行とシャレこみますか!!(にほんげんきペンギンe-books「小豆島倶楽部」より https://amzn.asia/d/bXFkZSj

  • 守られてきた寒霞渓の景観~150年前にあった映画みたいな二人のほんとの物語~(にほんげんきペンギンe-books「小豆島倶楽部」より)

    24年10月。環境、文化、経済、社会のバランスを保ちながら発展する「持 続可能な観光地」を調査認証する国際組織「グリーン・デスティネーションズ」(GD)は小豆島に対し、「シルバー」と格付けました。評価は透明性の高い具体的なデータを重視していることから、“今日から持続可能な観光地です”なんて無理な話。地域経済の発展と、環 境/文化の保護は、矛盾を抱えてしまうのも現実。だからこそ、小豆島・寒霞渓の格付け は未来へ持続させ残していく「想いと意思」が長きにわたり、その土地と人に引き継がれて きた証左でもあります。   この持続可能の観光地への物語は、今からちょうど150年前の小豆島・寒霞渓を心底愛した二人の男から始まります。一人は、医者の“中桐絢海”。もう一人は、小豆島霊場16番札所「極楽寺」の住職でもあった“森遷”。   神懸山ハイキングを楽しむ富裕層や文化人が多くなってきた明治期に、蘭学を礎とした私学「高松医学校」の教頭だった中桐は、大阪の天才儒学者でコピーライター藤澤南岳に、この地にふさわしい呼び名を発注。「寒霞渓」と決まるや否や、絶景ポイントルート(寒霞渓12景、東神懸、忠6谷)を造成し、新聞記者や文化人を小豆島へ招待し広報活動を展開。二人が愉快に広報活動と、観光開発に奔走している様子が目に浮かびます。ついには天皇陛下も小豆島へいらっしゃることに!小豆島遍路旅行、観光汽船会社の団体旅行、学生などの観光客も増え、醤油蔵の経済的な発展も相まって島が賑やかになっていきます。   一方で、寒霞渓の一部を個人が所有していることで、資源の採掘や貴重な樹木の伐採が行われ、本来の風景が失なわれてしまうことも。二人は観光ルート整備だけでなく、100年後までこの風景を保全し、観光振興しながら次の世代に遺していくために、「神懸山を守る会(神懸山保勝会)」を設立。樹木を植え、鹿、サルの捕獲を禁止し保護する(この保護活動は「銚子渓おさるの国」へと受け継がれます)など、自然環境保護活動を本格的に始めます。 この二人の「風景」保全活動に対する先進性は、2つの出来事と符合します。それは、昨今の外国人旅行者が感じる日本独自の四季・大地・自然の美しさの原型を作ったともいえる志賀重昂『日本風景論』の大ブーム。もう一つは日本初の自然保護組織『日本山岳会』の設立です。中桐と森は、いずれも豊かな国土と自然の保護継承を前提としたこの出来事に刺激も受け、宗教的な山岳巡礼と、欧米からの近代登山が溶け合う小豆島で、寒霞渓の「持続可能性」の実践に向き合ったはずです。 日本の山岳地域は急速な近代化による悪しき開発が横行。寒霞渓もご多聞に漏れず、小豆郡は県からの補助金で、登山道の改修開発工事を始めますが、景観破壊へつながる開発だったらしく、この工事の差し止めを求めたと、森自身の編著『神懸山志』に遺しています。ゆえに二人は、寒霞渓を共有財産(コモンズ)として神懸山保勝会が所有する必要性を感じていきます。 時を同じくして、寒霞渓の外資によるリゾート開発買収計画が明るみになる大事件が起こります。当然この買収を阻止しようとしますが、2人にはその資金がない…。途方にくれます。 そこにあらわるホワイトナイト。名は草壁町で醤油醸造業を営む“長西英三郎”。小豆島の醤油の販売拡大とブランド維持に貢献した「栄久社」(「小豆島醤油製造同業組合」の前身)を創立した島の名士。事情を知った彼は「人、ただ利を見るのみで、義を知らず」(四望頂にある「長西君義挙石碑」より)との憂いを持って、多額の寄付を投じ、寒霞渓景観保護に必要な土地を神懸山保勝会に買い取らせ阻止します。 以後、寒霞渓は神懸山保勝会所有となり、小豆島・寒霞渓の名声がさらに世に知れ渡り、名勝指定をうけ、その後日本初の国立公園に…。   こんな映画みたいな物語の主人公二人は、こうして現在に続く島の観光経済はもちろん、環境保全をも合わせた基盤を創りました。つまり、150年前の中桐と森の先進的な活動の「想いと意志」が次の世代の「中桐絢海」「森遷」を生み、脈々と引き継がれてきたからこそ、今回のGDのシルバー評価認証へと繋がって、いま日本を代表する寒霞渓の風景が、あなたの目の前に広がっているのです。(にほんげんきペンギンe-books「小豆島倶楽部」より https://amzn.asia/d/bXFkZSj

  • 小豆島のミライ

    少子高齢化と言われている昨今、小豆島も例外ではない。 2040年には現状の約25000人から15000人台になる計算もある。 58㌔平方メートルの面積である世田谷区の人口は約92万人。 95㌔平方メートルの面積である小豆島の人口は約2万5千人。 世田谷区の1キロ四方に住む人数はざっと15,800人。小豆島はざっと263人なんです。 これ、本当に単純だけど、この差をどう考えるか? 昭和15年(1940年)第5回 国勢調査による日本の総人口:73,114,308人とある。 今数字は、2050年の数字とほぼ一緒。(総務省「我が国における総人口の長期的推移」レポートより)現状から比べたら、政治状況の違いや資本によるインフラの整備は劣っている事実はありながら、その当時も、各地域には、地域の自治があり、エコシステムがあり、経済が回り、お祭りがあり、子どもがいて、學校があり、自然があり、活気があった。 今の観光は、人口が集中するエリアからいわゆる「過疎」の地域への移動。 ことの本質は、ウェルビーングといった耳障りのよい物言いのPRや、現世利益的、費用対効果な目的ではなく、もっとその地域の本質的な価値や魅力があるからじゃないかしら・・・。 現状の問題を「人口減」ではなく、「人口一極集中」と捉えなおした場合、 人が少ない多いという話ではなく、その地域の人々が、自然の恵みを生かしてどう豊かに持続可能に暮らしていくか、ということになります。人口が一極集中する地域では到底体験できない「価値ある暮らし」を、その地域で生活する人や訪れる人や関わる人らが先人らのこれまで途中で足元に落ちてしまっている多くの「バトン」を再度丁寧に拾い上げて、今のテクノロジーを手段として存分に使って新しいコミュ二ティを創造してく伸びしろ、可能性が詰まった「ミライ」が、ある、と考えることが大切なのではないか? 欧州から島に観光に来た方が「京都ではなく人は少ない時期の小豆島が一番日本らしい。大好きです」と言った――島のあるひとから、こんな話を聞きました。こんな体験を求めて観光に島に来てる人、需要があるんです。少子高齢化で人口密度が低くなり残念・・・なのではなく、穏やかで且つ凛とした島の冬時期の空、海、山の自然環境や体験を資源として胸を張って供給していく“ミライ”があるのでは? 同時に自然の恵みを知り、「足る」と「テクノロジー」をスマートに知っているからこそ、そこに住む人や関わる人たちがこの地域内で、自治や経済のエコシステムを回し、豊かな自然の中で古からの文化芸能が維持され、次の担い手の人づくりの基盤そのものを育み、持続可能になっていく方法こそが、豊かな価値とし、それを教え育て、どう人づくり(教育)をしているのか? 編集室では、そんな勝手な問題意識を持って、20年、いや100年先を見据えて次のバトンを担い手になる次の島の世代と、地域の大人たちがひとづくりにどう向き合っているのだろうか? ・・・と、気になって、話を聞きに行くことにしました。(続きはにほんげんきペンギンe‐Books 刊(amazon/kindle )「小豆島倶楽部 2024年秋冬号」で!:https://amzn.asia/d/fIyeDOi

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